
疾風怒濤!!
strum und drang!!

―― 1ヶ月後 サハラ砂漠
砂漠に草は生えない。
だが、砂漠はあらゆる価値を生みだし、永遠なる文明への啓示を広める。
いつの時代にも、歴史は砂漠が崇高なる人知を育む肥沃な土壌であることを証明した。
しかし…砂漠の何を語ろうとしているのか?
偉大なるオリエントの砂漠、天来のインスピレーションが降りた地、太古からの文明の源…
これまでいったいいくつの政府や帝国が栄えては滅び、滅びては栄えたのだろうか。
だが、この広大な砂の荒野は何も変わらない。
人々の怒りも喜びも悲しみも、そして記憶を飲み込み、それでも変わらない。
この永遠の風景は何千年も変わっていないし、きっとこれから先も変わることはないだろう。
すべてのものは無常にして、生まれては消えていく。
再生しては、また滅していく。
そして今日も何千年前と同じように日が暮れる。
水平線の向こうに太陽が沈みかけた頃、一人の西洋人が砂漠を横断していた。
まだ学生のようなハンサムな青年で、ボロボロになったカーキ色の軍服姿をしているがその顔にははっきりと疲労がかいま見える。
焼けた肌、汗が乾いたモジャモジャの金髪、目も虚ろで時々焦点が合っていない。
立ち止まり水筒のフタを空けて最後の水を飲み干す。
一口にも満たない量をごくりと喉に通す。
何度も水筒を振るが、空の水筒はいくら振っても空のままだった。
「糞ったれ(…こりゃ明日が年貢の納め時だぜ」
若きドイツ軍人ヴォルフ・フォン・シュナイダーは深いため息をついた。
戦場のど真ん中で迷子になって3日。
そろそろ体力的にも限界だった。
昨日は豪華に砂漠の野ネズミを焼いた肉料理だったが、今日は水筒の水さえも尽きてしまっている。
ボルトアクション式のライフルと着替えと弾薬の詰まったリュックは今のピンチをかわすのに何の役にも立ってくれない。
イギリス軍の捕虜になれば強制労働が待っているが、それでも食料と水はもらえるだろう。
ヴォルフは英軍の部隊に出くわすことを望んでいた。
だが普段は来て欲しくないときを狙ってくるくせに、こんなときに限っては何もしてこない。
昼間は灼熱の地獄。
火星に来たと錯覚するような赤い大地がどこまでも続いていく。
「あ…」
ヴォルフは足がもつれて、とたん、その場に倒れこんだ。
受身もとれずに、ダン、とゴミみたいに砂のベッドに打ち付けられる。
砂漠の神はこの若者から起き上がる気力すらも奪っていた。
まぶたが重い。
(やべぇ…ここで寝ちまったら、寝ちまったら絶対に死ぬぞ…)
なんとか起きようとするが、心地よい眠気に身体が反応しない。
だんだん意識も朦朧(としてきた。
それからどれくらいの時間が経過したのか、月明かりを浴びて象牙色になった砂の海が水平線の向こうにまで続いていく。
どうやら数時間、気を失っていたらしい。
「マサーウ
ンヌール(こんばんわ)」
女の声がした。
「…ま、マサーウ ルハイル(こ、こんばんわ)」
反射的に返事をする。
「気がついたみたいね。わたしの言葉わかりますか?」
「…君は?」
なんとか起き上がり、隣に座っていた少女に話しかける。
(毛布…?彼女がかけてくれたのか?)
ヴォルフの心情を察したのか、少女がにっこりと頷く。
褐色の肌に漆黒の髪、側には荷物を乗せたラクダが1頭。
青いターバンに青い服。
これはサハラ砂漠の遊牧民《トアレグ族》の衣装だ。

「よかった。英語(が通じるみたいね。わたしはただの通りすがり。あなたが弱っていたようだから一緒にいてあげたの」
「そっか、俺を介抱してくれたのか。この毛布も、ありがとう。その…、できれば水をもらえないか?いや、タダでとは言わない。ちゃんと金を払うよ」
ヴォルフがポケットに手を突っ込むが、残念ながらお金が見つからない。
(おかしいな…たしか20エジプト・ポンド札が何枚か残っていたと思ったのに…)
あせったヴォルフは荷物から懸命に探そうとする。
その様子を見て少女は眉間に軽くシワをよせた。
「わたしは砂漠で困ってる人からお金を巻き上げようとは思いません。わたしをシャイロックのような人間だと思っているとしたら大間違いです」
シェイクスピアを引用しながらヤギの革で作られた水筒を手渡す。
「あ、ああ。すまない。ありがとう」
「いえ。施しの義務は神の教えですから」
「…だが俺は異教徒だぜ?」
「見ればわかるわ」
少女は即答した。
「コーランにはユダヤ教やキリスト教徒を友としてはならないとあるんだろ。異教徒に施しなんてしたら、捕まって杭で縛りつけられて砂漠に置き去りにされる。そうなったら一日で日射病で死ぬ。俺も、あんたも」
「……かなりの偏見があるようね。そんな酷いことをする人たちはほんの一部ですよ」
だがそれを聞いてもヴォルフは猜疑心に満ちた目をしていた。
「前に酷い目にあったことがあるのかしら…?」
ぼそりと呟くが、すぐに男を安心させようと微笑みを浮かべる。
「大丈夫。わたしも異教徒ですよ。ムスリムから見ればね」
「君は違うのか?」
「ええ。わたしはブッダの信者ですから。それより水はいらないのですか?」
喉がカラカラに渇いていたことを思い出したヴォルフは受け取った水筒のフタを開けると、ごくりと音を立てて一口飲んだ。
それは生ぬるいただの水だったが、乾いた身体に染み込むような旨さはこの世のものとは思えない甘美なものだった。
だが砂漠は何があるかわからない。
今頃は休暇を楽しんでいるはずだった自分がなぜか迷子になっているように。
水は絶対に残しておくべきだ。
だが少女はその考えを読んだのか、苦笑しながら言った。
「別にいいですよ。水ならもう一本分ありますから。《ヘラクレア》までは歩いて1時間もかかりませんし」
「《ヘラクレア》?」
「ここから東へ数キロ行ったところにあるオアシスの街です。あなたはそこへ向かっているじゃないのですか?」
「いや……そんな街は聞いたことがない」
「それ地図ですよね?」
少女が指示すと、ヴォルフは胸ポケットに入っていた地図を貸した。
「…おかしいわ。この地図。《ヘラクレア》が載ってない」
これはどこの地図なの?と言いたげな視線を送る。
「載ってないだろ。俺はその地図を見ながら3日も砂漠をさ迷っていたんだ。3日前まではここにいた」
ヴォルフは地図を指差した。
「2日前はここ。そして昨日、気絶する前に確認したときはここだ。今はこの辺のはずだ」
「そんなはずありません。だってここは《ヘラクレア》から数キロしかないんだから。あなたの話を信じるなら、あなたは気を失っている間に1000キロ以上も移動したことになるのよ。徒歩じゃ絶対無理だわ」
「…どういうことだ?」
ヴォルフは辺りを見回す。
しかしよそ者のドイツ人であるヴォルフにとって、サハラ砂漠の風景はどこも同じに見えてしまい、気を失う前の風景と同じかどうかは判断できない。
困惑するドイツ兵。
わかっているのはここが前線はおろか、ドイツ軍が本拠地にしている港町《トリポリ》からも信じられないほど離れた内陸部だということだ。
「なんで俺はこんなところにいる…?」
「それはわたしが聞きたいです。それより…」
少女はヴォルフの格好を舐めるような視線で見る。
「なんだよ、ジロジロと…」
「あなた、もしかして脱走兵?」
「違う!俺は逃げてなんていない!ただ…」
言葉に詰まる。
「あー、そっか。迷子になっちゃったのね」
くすりと笑われる。
事実だが、ちょっと傷つく言い方であった。
「とりあえず」
ヴォルフは誤魔化すように少し声のトーンを強めながら、
「その《ヘラクレア》に行く。ここにいたら死ぬだけだ」
「なら一緒に行きましょう。《ヘラクレア》にはわたしが今住んでいる家があります。泊まるところが他にあればそちらでもいいですけど、ないみたいだし」
少女は両手を腰に当てながら言った。
なんとなく偉そうに見える。
「ああ。泊めてくれるならとても助かるよ。えーと…」
「リューシアナッサ・アンピトリーテ。友達はリューシーと呼びます」
「ありがとうリューシーさん。俺はヴォルフ・シュナイダーだ。ヴォルフと呼んでくれ」
「はいヴォルフさん。ところで泊める代わりと言ってはなんですけど、ちょっと頼みがあります」
「なんだ? このルガーが欲しいならあげてもいいけど、整備しなきゃ使い物にならないぜ。きっと砂が入っちまってる」
「違います!そんなのを欲しがる女の子がどこにいるんですか!」
「そりゃそうだ」
たしかにこんなものを欲しがるマニアックな女の子はそうそういない。
「お金や物じゃなくて……身体(で払ってもらいたいんです」
「身、体…?」
「はい」
リューシーはニッコリと微笑んでそう答えた。